1971年、名古屋大学教授の父・勝弘と保母歴20年の母・順代の長男として名古屋にて誕生。放任主義の両親に背くことなく高校生時代2年間を米国で過ごし、ディプロマ(卒業証書)をゲット、当時流行り始めた“帰国子女”になりすまして小論文「和歌山での大学生活」と面接のみで国立・和歌山大学に入学。
『人脈(ネットワーク)と体力』作りを目標に、4年間体育会系アメフト部に所属、自身のリクルーティング活動により、30人だった部員を卒業までに100人に増やし副将も務めた。
しかし受験戦争とは無縁のトントン拍子の人生も、大学4年生の時、アメフトの練習中に両眼網膜剥離という大怪我を負い、二ヶ月の暗闇入院生活によって「人生とはなんぞや」という人間の根本的な壁にブチ当る。本人の座右の銘、『「生きている」ということを実感しながら生きていく』は、この時期に生まれた。 |
健康すぎる、順調すぎる人生から一番反対側にいたときに出会ったのが、『舞台』。
たまたま知り合いのお兄さん(劇団MOP・小市慢太朗氏)が出演しているお芝居を観に行ったのが運の尽き(?)。舞台上で生き生きと光り輝いている役者さんの顔を見た瞬間に「これしかない!」と演劇の世界に飛び込む決心をする。上京したのは偶然、加藤健一事務所俳優養成教室のオーディションに合格したから。全国ツアーの裏方で舞台のノウハウを学び、一年半で退所。あまりにも食えなくて体重も10キロ以上痩せていた。アメフト現役時の見る影もなく…「一日一食」の習慣はここで確立、現在に至る。 |
定期的な舞台公演を行う団体に所属していないため、自らで公演を企画・立案しなければ舞台に立てないという状況から、44 Produce Unit (ヨシ プロデュース ユニット)を設立。2005年5月で8年目を迎えた。1998年4月には旗上げから11ヶ月という最短期間で小劇場の老舗、下北沢ザ・スズナリでの上演を敢行、同年10月には体力・精神力の限界に挑戦すべく、1ヶ月・41ステージのロングラン公演を実行し、動員も2600人を超える公演となった。2002年1月には念願の下北沢 本多劇場で上演、この舞台により2003年4月には更にもう一つの夢であった新宿 紀伊國屋ホールで上演する運びとなる。 |
『「生きている」瞬間を感じるために日常を120%で突っ走る』をモットーに、常にアグレッシブな姿勢を貫く34歳。米国留学を機に付け始めた日記も、一日も付け忘れることなく今年で17年目を迎える。暇さえあれば新型の電化製品をチェックして、買うつもりもないのに意味もなく一番安いお店を探すのが趣味。人と喋るのが苦にならないので、イベントでは延べ5万人以上のお客さんと会話しており、年末に出す年賀状も毎年1000枚を超え、上京してから丸10年でお芝居を観に来てくれる友人も400人以上になった。そのうちの半数は路上で声をかけて知り合いになった人達である。何事に対しても「一期一会」の精神で、心揺れ動く人物、舞台、映画、自然、何気ない日常などに出会えることを欲している。小さな自己満足の繰り返しが生きていることを実感する瞬間につながっているのではないか、と最近密かに自分の中でセオリー化している。 |